先月からある出来事をきっかけに「命の繋がり」ということを強く考えるようになりました。
今までも考えて来なかった訳ではありませんが、より身近なこととして考えるようになったのです。
頭で考えたり言葉にしたりすると誰もが理解出来ることですが・・・実感と言うのでしょうか・・・そう言うこと(伝えるのは難しい)です。
数年前私が未だ現職の頃のことですが、所謂家庭事情に恵まれない子供たちに関わった事がありました。彼らの殆どは親元から離れ集団で生活をし、学校へ通い普通の子達と何ら変わらぬ生活を送っています。ただ違っているのは、学校が終わり家(施設)に帰っても親がそこに居ないという現実です。当然のことながら男の子女の子がいましたが、私の勝手な私見ですが女の子に比べて男の子の方が親に対する未練心が強いように感じました。私自身子供の頃を振り返ってもそう思います。
例えが適切ではないと思いますが、世間で言うストーカー事件の加害者の殆どは男性のように感じます。未練心?執着心?が払拭できにくいのでしょうか?女の子の方が親から離された後の立ち直りは速い感じがしたものです。根拠の無い全くの私見ですが・・・。
私が‘百福‘作品をつくり続けているのも実はこの未練心にあるのではないか?と考えるようになりました。
端的に言葉で表現すると「生きた証」ということになるでしょうか?
自分が作った作品が自分の死後も生き続ける・・・究極はこう言うことでしょうか?他にも自分と関わった方々の記憶の中に生き続けるということもあるでしょうが・・・より具体的な形として残し、私のことを知らない未来の人へもその存在を伝えられる・・・という執着心かも知れません、究極の未練心?かも知れません。
そう言う意味では「未練心」は、私にとっては大切な作品作りのエネルギーの一つ・・・です。
私の知っている作家や詩人芸術家等々皆さんもその伝記や作品に触れると「未練」の持ち主だったように感じます。
話が変わりますが、私が子供だった頃音楽の授業で歌っていて涙が出そうなくらい切なくなる歌がありました。たしか・・・「母さんが夜なべをして~手袋編んでくれた~」という歌詞から始まる歌でした。切ない歌詞に切ない旋律・・・胸に迫って来るものがありました・・・自然と自分がその歌詞の主人公になったように感じたものです。ある時を境にその感覚?考え方が変わりました。
現実の問題として考えると、田舎に暮らす両親が我が子に宛てた手紙の内容が歌詞として使われていると判断出来るものですが、これも勝手な私見ですが、あの歌詞の内容で実際に手紙をもらった子の気持ちになると、とても心を痛めてしまい仕事も手につかなくなるのでは・・・と考えてしまいます。
「~木枯らし吹いちゃ冷たかろうと、せっせと編んだ~」このコメントの付いた手袋・・・有難いけど平気で使えません・・・この歌詞に象徴されるように全編が親の子に対する愛情?思い?を綴ったものになっています・・・親の思いが「重すぎる」のです。
一見我が子を思う親の切ない気持ちに絆されますが・・・これをもらった子は後ろ髪を引かれる思いになり、自分の置かれた立場で頑張ろうという気持ちが削がれてしまうのでは・・・と言うのが私の考え・・・決して親の子を思う心を否定する気はありません。むしろ大切なことだと考えます。が、
子どものことを考えると、「私が編んだ手袋、編み物教室で優秀賞をもらったの・・・」くらいの感覚の方が受け取った子は安心して自分の生活に集中できるはず・・・。「おとうは畑で野良仕事・・・」
よりは、「今度二人で旅行に行くの・・・今から楽しみ・・・」のほうが子どもの気持ちも落ち着くはず・・・。
親の仕事は、人生の先輩として先を歩く、友として横を歩く、保護者として後ろを歩くというのがあるそうです。
熱が出た時、氷で熱を下げる方法と、体を芯から温めて汗を出させて熱を下げる方法があるそうです。
どうにもならない困った問題が生じたとき、悩み苦しむのが人間ですが、一度リセットするには寝てしまう方法が有効だそうです。また、自分に降りかかった問題は自分に解決出来ない問題は降りかかってこないという考えと、どうしようもなく行き詰まった問題でも、意外な形で片付くという考えを持っていれば、心は少しは安定してくれるはず・・・。参考になれば嬉しいですが・・・。
親の立場というものは難しいものですね、考えれば考えるほど・・・親の立場だけではありませんけど・・・。
話の内容がまとまらないものになりました。
写真の作品は、第4回の個展に出品する予定でした短冊タイプの作品です。なかなかスッキリとした爽やかな作品に仕上がりました。
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田代香子 (月曜日, 11 4月 2016 17:24)
たしかに納得です
寝るとたしかにアイデアも
沸いてきますね☀